2017年8月3日木曜日

雑記20170803

<<追記20170803
今日も仕事した。
今週もあと一日である。
帰り際市役所行って広報もらって帰った。
そのため二日続きで読書は出来なかった。
昨日で古代史は3/4ほど進んだ。
最近はデザインパターンを一日一つずつ読み直している。
逆にUMLはやっていない。
UMLもデザインパターンもオブジェクト指向でリンクしている。
基本的に把握していないと全体像がつかめない。
なのであっちをやるとこっちが気になる状態である。
Javaの問題も楽しいと言えば楽しい気がする。
Python言語はプログラム言語というより数学に近い気がする。
最初は戸惑ったけど慣れれば使いやすい気がする。
そういう意味ではFortranよりPythonの方がプログラムという感じがしない気がする。
GO言語はどのプラットフォームでも機械語にはきだすので汎用性がある気がする。
GO言語でプログラム出来れば強みが出る気がする。
他にはLISPや短歌や俳句や憲法前文草案や物理など
全体的にここまでこれて満足している。
私の文章もやり過ぎ感は否めない。
それだけやっているという事だろうと思う。
なんとなく理論の真髄とは一人でなんとかなってしまうような気がする。
私のようなチームプレーというよりは
一人で開拓していけるのが理論の真髄のように思う。
それは世の中にたくさんの理論があるから可能なのである。
現存するプログラムも物理も短歌も俳句もそういう諸々が理論なのである。
それが一人の手で理論を展開していけるのが本当の理論な気がする。
葛飾北斎をとってみても違う形で理論を展開する。
それが理論の冥利につきる気がする。
世間が理論家として認めなくても
大学の二年間は理論家だったわけでその片鱗を示せた気がする。
物理学だけに理論家がいる。
私はそう聞いている。そんなにいない理論家に私なりに理論を展開した。
普通は理論と実験両方やっているのが現状の中
私が理論を展開したのは物理の理論が美しい理論だからだと思う。
ぜひ他分野もそういう美しい理論を目指して欲しい。
そうして理論の真髄を示して欲しい。
そういう意味では私はサラリーマン失格である。
実験家としても失格である。
チームプレーとしても失格である。
理論家とはそういうものらしい。
多分そう言った手前理論を展開するのが理論家なのだと思う。
それはチームプレーかもしれない。
だがそれは違った形のチームプレーのように思う。
それなりに自分主体のチームプレーのように思う。
何はともあれ明日一日
ボチボチやりたい。
<<追記20170803end

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